置き去りにされる「シチズンシップ教育」
- 山口 祐臣
- 2016年7月26日
- 読了時間: 2分

短文投稿サイトやまとめサイトなど 短く、時間がかからず解りやすいことが もてはやされる昨今。 楽しく、手軽で、軽いものが良い。 苦しく、面倒で、重いものは不要。 効率化、価値の明示化を追求し 伴い複雑なものを排除。 こうした世の中の歪みが現れた 今朝の悲劇的な事件だったのではないかと 感じています。 肌の色、言語、宗教、文化、習慣。 そこまで行かずとも、隣の誰かは あなた自身とは違うはず。 家族とて最初の他者でしかないわけです。 一人では生きられず、集団の中にありながら 個人的利害を追求しがちな人という個を 「愛情」や「知性」という相反するものにより 一部の権利や財を制限し、社会を循環させていく のが「国家」という名の共同体。 昨今の単純化、平易化されたものを良しとする 志向性により、市民社会というものが「多様性」 や「分業制」によって成り立っていることが 置き去りにされています。 「多様性」や「複雑性」を理解できる知性を 持ち続けることが、この高度情報化社会で 知覚が広がった「はず」の我々現代人に問われて います。自由によりよく生きるために不可欠な 『公』という概念を維持するために。 障碍のある方も大切な社会の構成員。 「障碍者なんていなくなればいい」 こういう価値観をどのような理由であれ 断じて認めてはなりません。

























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